日本社会はお堅いイメージがありますよね。それは時代を問わず、今も昔もだと思います。しかし、織田信長などの戦国武将は男色(男性同性愛)がたしなみだったと言われています。お堅そうな日本の歴史の意外な現実。日本での同性愛の歴史はいつから始まったのでしょうか。歴史の教科書に載っていない裏の日本史を探ってみましょう。
1 “男色”を知らずして日本史を語るべからず
日本では、男性同士による恋愛は“男色(なんしょく、だんしょく)”と呼ばれています。
この“男色”を知らずして日本史は語れません。
有名な歴史人物にも“男色”を好んだ人は大勢おり、しかも特別なことではなく、当たり前という感覚だったのです。昔は、セックスは異性でないといけないという考え方自体がなく、現在の私たちの感覚とは違っており、それが当たり前だったと言えるでしょう。
仏の道や、戦の世界とともに歩んできた日本の歴史。
日本の歴史は、男同士の恋の歴史といっても過言ではありません。
仏の道や、戦の世界の事情を考えると、納得できると思います。
“男色”を知らずして日本史を語るべからずなのです。
2 え、まさかあの人も? 男を愛した歴史上の超有名人物たち
それでは、具体的に、歴史上のどの人物が、“男色”を好んだのでしょうか。
驚くくらいたくさんいるので挙げきれませんが、代表的な人物を挙げてみます。
★空海
真言宗の開祖である空海。『徒然草』にも、「御室の稚児(ちご)を誘い出す法師」として描かれている。
★織田信長
天下統一の超有名武将。戦国時代を代表する美少年や、小姓(こしょう:武将の身辺に仕える職)・森蘭丸との仲は、やおい好みの史実としてあまりにも有名。
★足利義満
安土桃山時代の将軍。生涯、能役者・世阿弥を愛し、世阿弥もこれに応えたとされる。
★徳川家康
鷹狩りの最中に、美少年だった井伊直政に一目惚れ。小姓にして重宝したそう。井伊直政は、若くして徳川四天王にまで出世した。
★西郷隆盛
薩摩という国は、当時もっとも男色が盛んな地域だったと言われている。西郷隆盛は、愛する僧侶と一緒に海で入水自殺しようとしたりもしている。
他にも、安倍晴明、吉田兼好、足利義満、上杉謙信、明智光秀、石田三成、伊達政宗、井原西鶴・・・など、挙げればきりがないです。
歴史上の人物で、男色に興味がなかったのは、豊臣秀吉ぐらいしかいないとまで言われています。(ちなみに、秀吉は女狂いで有名)
3 日本の同性愛の歴史って、いつから?
現在、日本において男性同士の同性愛への見方は、以前に比べれば市民権を得てきているという声もあがってはいますが、まだ世間一般に認められているとはいい難いです。
しかし“同性愛”という言語が作られたのは、わずか120年前ほど、1896年です。それまでの性愛行為には、その対象が同性や、異性であることを区別する言語は存在しませんでした。
はじまりは、1300年ほど前、日本に現存する最古の正史である『日本書紀』に、男色に関する記述がはじめて確認でき、祝(ほうり:神職)という神に近い存在の間に、男色が存在したという記述が出てきます。
『日本書紀』の時代からとは、“同性愛”は日本の歴史とともにあるようです。
4 空海が輸入してメジャーにした“男色”
日本で“男色”のはじまりを確認できるのは『日本書紀』ですが、日本で“男色”をメジャーにしたのは空海と言われています。
空海は若い頃、唐の長安に渡り、その後日本に仏教を広めた人物ですが、それと同時に日本に“男色”の風習も広めたようです。
仏教の世界では、女体は修行している男を惑わす魔物であるとされ、女人禁制の鉄則があります。女性の生理はけがれとされ、肉体関係を持っちゃったら破門ということもあったそうです。しかし、僧でも性欲はたまります。
そこで出てきたのが“稚児”と呼ばれる、12歳〜18歳くらいの少年たちです。彼らは、成人するまで修行しながら僧の身の回りの世話をする役目を持っていました。稚児との肉体関係は身を清めるとされ、僧が自分達のことを正当化していたそうです。(ちなみに、天台宗と真言宗が、“男色”がお盛んらしいです)
当時の社会の中での仏教の影響は強く、僧から貴族、そして武士にまで広まっていったと言われています。
5 “男色”が常識と化した戦国時代
その後、“男色”とともに、歴史は流れ、時は戦国時代。
この頃には、“男色”は当たり前になっていました。
戦国時代の武将たちにとっては男性同士の恋愛というのは、一般的に受け入れられていたそうです。
戦国武将に男色文化が根付いた理由として、
①戦場には女性がおらず、性的な相手が男性しかいなかった
②男色は崇高な趣味と捉えられていた
③男色は出世のきっかけとなる
などが言われます。
この時代は、戦において女性と関わりを持ってはいけないので、必然的に女性のような美少年が慰み者になってしまいます。これは別に悪いことでもなんでもなく、当たり前のことだったのです。ほとんどの武将は、“男色”を当たり前に経験していたと思われます。
さらに時は流れ、江戸時代後半になると、“男色”の厳重な取り締まりを受けますが、武士道の精神と深く関わる男同士の情愛は、様々な形で続き、薩摩藩の衆道は幕末維新まで続いたとされます。
6 なぜ衆道は、なぜ『道』か?
男色のうち、武士同士のものは“衆道(しゅうどう)”と呼ばれ、“若衆道”(わかしゅどう)の略です。
これは、“若衆”とよばれる少年がより経験豊かな年長者の男性より武術の訓練を受ける慣習から拡がったとされます。年長者は“念者”、“念友”などと呼ばれ、年少者の同意を以て成年までの期間に恋愛関係を持つことができました。(この関係性は兄弟愛の関係性に基づくものであったとされます)
日本の伝統である、武士道、茶道、華道、剣道、柔道などと同じように、“衆道”にも『道』がつくのは面白いですね。
“衆道”では、年長者は若衆に対して武術や武士の礼法、武士道的規律を教える立場となり模範的な振舞いを求められました。そのため衆道における関係性は「互いに高め合う効果」をも持っており、さらに互いに対する忠誠心は死に至るまで続き、封建的な責務や決闘や復讐などの道義心に基づく責務をも期待されていました。両者における性的関係は、若年側の成人を以て終わるものの、関係性は生涯における友情となることが理想とされていました。
これを『道』と呼ばすして、何と呼べばいいでしょう。
男同士の恋の歴史から日本の歴史を見直してみると、歴史をより深く考えるきっかけになるかもしれません。
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